45年前の東大入試の風景(数学)

東大入試の日から45年経過した。しかし、昨日のことのようにあの日の異常な緊張感が思い出される。

試験場は、駒場だった。井の頭線の「駒場東大前駅」を降りると、すぐ目の前に赤レンガづくりの時計台の本館が現れる。試験は本館で受けた。

試験が始まる前には、深い森の中にいるような静けさであった。そして空襲警報のようなサイレンが響き渡ると試験開始。そのとき受験生は一斉に試験問題に取り掛かる。このときの試験用紙をめくる音、今まで生きてきて体験したことがないような猛烈な気合の空気に圧倒される。


難関大学の入試問題のあらゆるパターンは、ほとんど頭の中にあるはずだった。しけし、6題中1題もヒットしない。東大の問題は、他大学を含め過去問と同じ問題はがそのままでることはない。どこかでみたことのある問題は1問も出ない。本番の試験場ではじめて「こんにちは」という問題しかでない。

問題文の問われている趣旨を正確に理解することも難しい。式の変形も定形以外に、工夫が必要であったり、一筋縄ではいかない。平凡に式をたてて、素朴に計算するとお化けのような式になり、収集がつかなくなる。

しかし、本番の試験場では超難問でも、駿台予備校の速報では、「標準」であった。
私の受験勉強時間は、おそらく、6000〜7000時間に到達しており、限界と思った。

私は、6題中、正解1題、半分程度の正解が3題であった。

高校の友人と比較すると、数学のできは似たようなものだった。しかし、その友人は、国語の古文が得意だった。私は古文は崩壊していた。

発表は、3月20日.本郷であった。合否は、地下鉄の駅で地上にでる前にわかった。その友人と地下鉄駅構内で会ったときに顔をそむけた。それで合否がわかった。しかし、掲示板に確かめにいった。涙が、ポロリと出た。それからわけもなく、ひたすら、都内の雑踏を半日あるき回った。

点数を開示すると、私よりも高校の友人は、6点良かった。理科一類の合格点まで、あと12点、理科ニ類まで、4点。高校時代の友達は、合格した。

私は、12点たりなかったが、完敗と思った。全然惜しくない。断言できる。

予備校の先生が言っていた。上位三分の一は、何度試験をしても受かる。次の真ん中の三分の一は、半分の確率で受かる。しかし、下位三分の一は試験をやるたびに入れ替わる。

理系は大学にはいってからの勉強が厳しい。だから、ぎりぎりの成績で、限界の受験勉強をして入るのは好ましくない。

その後、私は当時の二期校の横浜国大に進学したが、確かに大学での勉強は、厳しかった。


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