旧制都立日比谷高校の古くて新しい学校文化

都立日比谷高校のすぐ傍には、国会議事堂があり、校庭から霞が関や大手町のビル群が眺められます。自民党本部もすぐそばありました。赤いレンガ造りの蔦の生えた講堂は、壊されて再び再建されることはありませんでした。大イチョウも伐採されてしまいました。昭和30年~40年代の日比谷の象徴的な建物は全く残っていません。

 

50年前、こんな高校が実在していました

・生徒の視線は、校歌にもあるように「世界」に向けられて

 いた。

・生徒の日々の学校生活は「自主独立」が重んじられていた。

 昼休みも自由に校門を出入りし、11月には3年生を主体にし

 た派手な文化祭を3日間開かれた。様々な催しがすべて生徒の

 手で自主的に行われた。

・二期制であった。定期試験は年二回しかなかった。

 知識を覚えていればできる問題はなかった。すべて論述方式

 だった。数学や物理は零点が続出した。100点もいた。

・東大に150人程度進学したが、現役でいける人は30人程度しか

 いなかった。浪人しても学校が面倒をみていた。一浪して多く

 の人が東大に進学した。

・授業は、主要科目は、原則100分だった。生徒の発表授業が

 多いので100分の方がやりやすかった。先生は時々アドバイス

 するだけで、生徒同士の白熱した議論が多かった。

 数学は教室に三面ある黒板に勝手に生徒が、難しい問題を解き

 あって議論していた。

・国語は一年から、カント、ヘーゲルサルトル、カミユ等の

 哲学書を読んで議論し合うことが多かった。

・英語は、教科書は6月末には終了し、ニューヨークタイムズ

 等の新聞やハムレット等の小説等の膨大なプリントにうずも

 れた。英々辞典以外は使わせてくれなかった。グラマーは、

 深く学んだ。構造分析は、緻密に行った。

・2年生のクラス替えは、担任の先生が体育館に旗をもって、

 並び人数調整から、クラスのメンバー決めは全て生徒が丸1日

 かけて行った。

雀荘やパチンコにクラスのみんなで遊びに行ったことも

 あった。

 

 

 とにかく、みんなで切磋琢磨し合い、思いっきり背伸びして

 いたようです。

 ところで、現在の都立日比谷高校は、「進学重点校」として、

 管理教育が行われていて、文武両道といいながら、ベネッセの

 試験を使った定点観測が緻密に行われていて、面倒のよい、

 予備校いらずの進学校になっています。

 東大も40~50人程度まで復活しました。

 勿論かっての196人といった記録には、足元にも及びません。

 

 そんなことよりも、生徒同士が真剣に切磋琢磨して思いっきり

 伸びることができた学びの場、それが、旧制日比谷高校です。

 現在の日比谷高校とは別学校です。決して悪い意味で言って

 いるわけではありません。私立全盛時代によくここまで復活

 したとは思います。

 

 しかし、旧制日比谷には、「主体的な学び」「対話的な学び」「深い学び」全てが、有機的に連動して光輝いていました。