50年前のとある都立超進学高校の日常風景

1    二期制であった。少しだけ秋休みもあった。定期テストは、年2回だけあった。

実力テストは、2年と3年で一回ずつあった。

 

2    理系と文系にクラスが分かれることはなかった。数学Ⅲは、文系理系に拘らず、多くの生徒が、履修していた。物理、化学も理系、文系の別はなかった。世界史、日本史も理系、文系の別はなった。

3    英語は、教科書は、6月には、終了した。

その後、ニューヨークタイムズハムレット等の副読本だけで、11冊に及んだ。

英文法の授業は、論理的で、レベルが、高く説得性があった。教科書は使ったが、教科書に記載していること以外のことも沢山、練習した。

授業中は、大量のプリントが溢れていた。

はじめから、授業中、当たりたくない人は、当たりたくない人用の席があった。そこに座っていれば、寝るのも自由だった。全て自己責任だった。

4    数学は、生徒が、勝手に問題を見つけてきて、問題とともに解法を黒板に書いて、生徒同士で議論する方法がメインであった。

黒板は、3面あって、朝から、数学の解法を生徒が勝手に書いていた。授業中は、勝手に生徒が議論をして、先生は、コメントするだけだった。定期テストは、難しかった。女性は、ほとんどのひとが、100点中5点か10点だった。

 

5  国語は、教科書は使わなかった。

カミュのシェーシポスの神話、カントの純粋性理性批判、西田幾多郎の哲学等の読書をして、要旨を書いて、その後に、活発な議論が展開がされた。議論は、半分くらいの生徒は、熱く、参加していた。

 

6     生物は、教科書を使わずに、生化学の基礎をプリント学習した。興味のある生徒は、熱中し、興味のない人は、何もしないで終わった。

友人は、生化学の授業に猛烈に感動し、東大理科2類に入り、理学部生物化学科に進学し、博士課程をへて研究者になった。

 

7    全体的に生徒主体の発表授業が多かった。

勉強は、不得手でも、やけに発表が上手くて、教室を湧かせる生徒も多くいた。

 

8   クラス編成は、高校2年の4月の初めに、生徒主体で行った。体育館に旗を、持って担任が立ち、そのまわりに生徒が自由に集まった。

人気のある先生とない先生の差が大きく広かった。しかし、生徒同士が話し合い、丸一日かけて、ほぼ、同一人数になるように調整した。

 

9   教員が生徒を大人扱いしていた。

生活指導の類は、なかった。自由が与えられると同時に自己責任が当然のこととして要求された。昼間に学校を抜け出すのも自由。パチンコやマージャンをししている生徒も相当数いた。その間の授業の抜けた部分は、生徒自身で自習していた。

 

文化祭は、11月に3日間行われた。

3年が一番盛り上がった。参加者は、半分程度。参加するかしないかは、完全に生徒の意思に任せられていた。

 

10     3年間を通じて、一切、宿題なし。 

自学自習が、前提条件。みんな自分勝手に生徒によっては、猛烈にしていた。一方で全く勉強しなくなる生徒もいた。高校時代全く勉強せずに、浪人時代に突然目覚めて、勉強をはじめ、国立医学部に合格する生徒もいた。

 

自治、自主独立、世界の中に立ちてものをみる、がよく、言われていました。

 

将来の職業について生徒同士でよく雑談していた。法曹界、医者、学者、総合商社、マスコミ、エンジニア、高級官僚、さらには、東京海上三菱商事と興銀の給料が際立って高い等話している生徒もいた。

 

大学受験では、少しでも高いところ。目指そうと激烈に勉強した。一浪80%、二浪も20%は、少なくともいた。

生徒同士、お互いに限界を超えて伸びようと、切磋琢磨しあっていた。

校訓「人は人に揉まれて人になる」

 

完全個人指導塾  OEC      下垣  明

大分市松が丘   携帯08067134143